2010年 10月 06日
月と太陽
先日買った、ちょー珍しいレーシングカーのミニカーを紹介しますヨ。
スパークモデル製1/43スケール
カール A ハース レーシングチーム ローラT333 CS
エンジンは、シボレーのV8 5000ccのNAエンジン
ドライバー パトリック・タンベイ
古いF1ファンで、タンベイさんの名前をご存じない人はいねーと思うのですけど、一応サラっと説明すると、'82年のゾルダーの悲劇で、ティフォシのアイドル=ジル・ビルヌーブが天に召された後、彼のナンバー27のフェラーリに乗って、スクーデリアのコンストラクターズチャンピオンを死守してみせた、ちょー偉いお人ですヨ。
そのタンベイさんが、第2期Can-Amシリーズ開始の'77年、第6戦モスポートパークから第9戦リバーサイドまでポールトゥウインを重ね、結果シリーズチャンピオンを獲得したマシンなのです。
この時期のCan-Amは資料が少なくて、モスポート以前やリバーサイド以降もレースに出ていたかは、ワタクシはご存知ねーのでカンベンデスヨ。
で、この年のCan-Amなのですが、ジルも参戦してるのです。
マシンは、ウォルター・ウルフ レーシングチームのダラーラシャシーWD-1
ちょー、かっけーナ!
このマシン!
でもタンベイさんと違って、ジルの方はたいしたリザルトは残していませんヨ。
ウルフレーシングは、カナダの大富豪ウォルター・ウルフ氏のプライベートチームなのですけど、この年からF1にも本格参戦してまして、なんと後にジルとチームメイトになりチャンピオンになったジョディー・シェクターのドライブで、開幕戦優勝という偉業もなしてるのです。
ウルフWR3 フォード ジョディー・シェクター 日本GP
タミヤのロゴも眩しいマシンは、当時タミヤよりプラモで発売になってるので、馴染み深いおっさんも多いことと思いますヨ。
この初登場即優勝という偉業を果たしたマシンの設計者は、後にジルの命を奪ったフェラー126C2を作った故ハーベイ・ポスルズウェイト博士なのです・・・
ジルはこの年'77のF1第10戦シルバーストンに、マクラーレンからスポット参戦して11位完走。
第16戦の母国カナダと最終17戦の日本GPに、エンツィオとケンカしてスクーデリアを飛び出したニキ・ラウダの代わりにフェラーリをドライブして栄光の階段を登り始めました。
その日本GPでジルは、ロニー・ピーターソンの6輪タイレルと接触して宙を舞い、コース脇に落下。
立ち入り禁止区画だったその場所にいたファンを死亡させてしまってるのです。
この事態になんと、道路交通法違反として警察が介入しちゃったので、ロニーとジルは慌てて日本を離れました。
翌日の新聞に大きくこの事件が取り上げられたのを、ワタクシは憶えてますヨ。
アサヒ新聞は、暴走族の祭典で死者発生とかいう社説を載せてたですナァ。
やれやれですヨ。
当時、小学生だったもんしろサンでも、「バカ(社説書いた記者)かコイツ?」とか思ったものですヨ。
立ち入り禁止の危険区画に、ファンが居るにも拘らずレースを始めちゃったオーガナイザーに責任の全てがあるですナ。
・・・・・・・・・・・・・
一方のタンベイさんは、'77年第9戦フランスGPに、元F1チャンピオン=ジョン・サーティースのプライベートチームから参戦。
次戦より、香港の大富豪テディ・イップのプライベートチームのエンサインN177 フォードに乗り換えて、第11戦ドイツGPでは6位入賞を皮切りに、上位入賞を重ね、翌年にはジェームス・ハントのチームメイトとしてマクラーレンに招かれましたが、マクラーレン自体がちょー低迷。
結果、タンベイさんのF1でのピークは、ジルの代走をした時期ということになっちゃいました。
でも、ティフォシなら、彼の名前を絶対に忘れねーのですヨ。
二人は'77年、Can-AM参戦→F1にステップアップと同じ道を辿ってます。
彼らがお友達になった背景には、こういった部分もあるかもですナ。
なんかこのマシン、フォーミュラっぽくね?
と思った人は正解ですヨ。
US F5000というカテゴリー(アメリカ製の5000ccのエンジンを載せたフォーミュラカー)のマシンに、ボディカウルを被せたのが第2期Can-Amマシンなのです。
現代のルマンなんかを走ってる、プロトタイプマシンの面影がすでにありますよナ。
おー、
レーシングカー、大好きですヨ!
by roran
| 2010-10-06 04:02
| ザツダン