ブログトップ

回避無宿

星を継ぐ恋人たちの鼓動ハワイ!

遅ればせながら、ガンダムファンの端くれとして、新訳Zと呼ばれる劇場版『機動戦士Zガンダム A New Translation』三部作をDVDで見たですよ。
忘れないうちに感想を書いておくですよ。

以下ネタバレがありますので、未見のかたはご了承ください。


まずはオリジナルのTVシリーズについてですが、発表から現在まで、いろいろな形で論評されてきてますが(当然それらの全部を読んだわけではないですが)、やはり作者である富野由悠季さんの一言による総括「現実認識の物語」を越えるものはないようです。

例え主人公の両親が死のうが、仲間が非業の死を遂げようが、愛やら命やらの感傷に浸る間もなく、ひたすら軍隊の作戦だけが展開されてゆく物語・・・・
当時のアニメファンに対する社会的認知は、空想にばっかり浸って現実に背を向けているといった感じでしたけど、富野さんは自分が関わったヤマトやガンダムが生み出したそういった若者達(富野氏ご自身はそういったアニメファンがキライと語っている)に対して、世の中現実にあるものを、もっとよく見ろ。それらに触れろ。立ち止まるな。と言って突き放したのがTV版のZガンダムだったと私は思っています。

例えば、シャアの盟友ロベルト中尉が作戦の最中死んでしまいます。
我々ファンは(カミーユも)ここでロベルトさんに対して想いを巡らせたいのですけど、作戦のメインであるシャトルのカウントダウンは止どまることを許しません。
常に現実(リアル)は展開して行き、そこに参加している(リアルで生きている)以上、それを全うして行く義務と責任からは逃れられない→現実を認識しろ! ってことの表現ですか。
全編を通して、このようなシチュエーションの繰り返しが、Zガンダムをストレスドラマと言わしめる所以なのでしょう。

今回の新訳では、このへんをどう解釈してるのかが、非常に興味がありました。



・・・・で早速、私の結論ですが・・・なにも変わっていない。
いやむしろ、より突き放した?
と思いました。

あれだけの長い物語をまとめなきゃならないムリは当然ありますが、大事なセリフや状況を、上手くキャラを入れ替えたり端折ったりしながら、なんとかファーストガンダムの劇場版のレベルには仕上げてると思いました。
ⅠよりはⅡ、ⅡよりはⅢと上手くまとめています。
でもこれを映画館まで行って見たいか? と言うとそこまでの価値もないかな・・・って感じです。


新訳と銘打ったのは、カミーユとエマさんの描き方を変えたことを指してるんでしょう。

私としては、エマさんとレコアさんの正反対の女性のドラマに期待してましたので、エマさんの方から語ります。
オリジナルのエマさんはまさに【鋼鉄の処女】。
恋愛などしたこともなく、男性に対する接し方も軍人として仕事しているいつものまんま。
自分が職場の華になる価値があるなんて全く意識すらないような、面白くもない女です・・・・

が、そんなエマさんが新訳では少し色っぽく変えられていました。
しかしこれは、なぜか野郎共に人気のあるヘンケン艦長に絡んでの変更なのでしょう。
オリジナルではヘンケン艦長の想いに対して、全く暖簾に腕押し状態だったエマさんですが、ヘンケン人気に製作側が応える形で、エマさんを、少しは恋する男性の心情も理解できる女性として描き直されていました。
さりげなくエマさんがヘンケン艦長に寄り添ったり、細かく面倒を見たりといったシーンの追加により、ヘンケン艦長の船ラーディッシュがエマさんのMarkⅡの盾になる有名なシーンにおける、ラーディッシュのクルーや艦長の男っぷりが報われる(野郎共はウレシイ)というものです。
でも、エマさんはヘンケン艦長を愛してはいないでしょうね・・・・


そして肝心のカミーユです。
オリジナルではラストに精神に異常をきたしてしまいますが、新訳ではそんなことはアリマセン。
これは、シロッコが絶命する時にカミーユを引っ張っていかなかったからです。
私も好きなアノセリフ
「カミーユ! お前も連れて行く・・・・!」
は今回はナシでした。

もっとも新訳では、シロッコに引っ張られちゃうようなカミーユの弱い部分は描かれていません。
それにシロッコの方もカミーユを引っ張るだけのカリスマを感じさせないようになってました。
二人のラストバトルで、死んでいった仲間達の意識がカミーユに集結して、驚異のパワーアップを果たすZガンダムですが、それ故にオリジナルではカミーユはパンクしちゃいました。
しかし今回は、そうならない強さをカミーユは持っています。

この強さどっかで見たこと・・・・?
そうです。ジュドー・アーシタの強さとオーバーラップしますね。
ラストシーンでファと抱き合うカミーユには、例えば、いつまでもモビルスーツを捨てきれないアムロやシャアの影は全く無く、その後に登場するジュドーのようです。
ジュドーは自分の役目が終わると、さっさとモビルスーツを降りちゃいましたが、新訳のカミーユもそんな感じに描かれています。
仮にZZガンダムの劇場版が作られても、カミーユは登場しない(させない)でしょう。

さて、人間として強く成長した風に描かれ直されたカミーユですが、オリジナルの精神に異常をきたしたカミーユの姿は、私には富野さんの心にあったアニメファンの姿にみえます。
前には進まず、その場にいつまでも留まっている状態。
しかも面倒見のいいガールフレンド(ファ)付き。
富野氏はこんな風に皮肉ったのでしょう。
そして今回の新訳では、ファンの拠り所と位置づけたカミーユをきっぱりと成長させて、そこに留まっている者達を突き放した・・・・
私はそう解釈しました。

ラストシーンで抱き合う二人(カミーユ&ファ)の話してるセリフを、アーガマのブリッジのクルーたちが代わりに我々見ている者にしゃべってくれますが、あのイヤラシさと言うかヘンな感じは、富野さんが突き放した者達の声なんじゃないのでしょうか。
しかもカミーユは
「意識だけ(の存在)じゃない、実体のあるファを抱けるんだ!」
って言うようなセリフまで言ってますし。


富野氏がアニメファンを嫌うのは勝手です。
私には関係ないことです。
でも同じアニメが大好きな立場でも、自分を外の世界から切り離して自分のアタマの中にだけ閉じこもって王様になってしまうことと、アニメを仕事として社会でいろいろな他人と関わって生きていくことは、明確に違うことだと、カミーユは言いたかったんでしょうね。

そんなアタリマエのことが判ってない人たちが現にいるのですから。
生きている以上、(例えイヤでも)社会と関わりを持たないと意味が無いのです。

おー、無職のあっしにはキツイですなぁ。
でも、ぜーんぜん平気ですけど^^
フヘヘ~
[PR]
by roran | 2006-09-07 18:18 | ザツダン